カテゴリー「刀剣」の45件の記事

2008年10月 3日 (金曜日)

劍豪の佩刀(拾)

【劍豪の佩刀】

近藤勇・・・長曾祢虎徹(ながそねこてつ)・・(新刀)

天然理心流四代目、新撰組局長近藤勇昌宜の佩刀です。
池田屋討ち入りの時にも使はれました。
五郞入道正宗とともに日本鍛刀史を飾る秀逸な刀匠です。

勇の虎徹は僞物だつたとの説が根強いのですが、明治維新後まで現存してゐた現物を確認した人物の、「本物である」との證言があるやうです。

虎徹】は近江國長曾根村(現滋賀縣彦根市長曾根町)に生まれました。
家はこの村の刀鍛冶でしたが、關ヶ原の役後に越前に流れて甲冑鍛冶となり、虎徹も長じてこの生業に就いてゐました。

三代將軍家光の治世の寬文年間、虎徹五十歳前後の時期に江戸に出て、それまで副業だつた鍛刀を本業とし、延寶六年に沒するまでの十五年間に二百數十振りを鍛造しました。

當初「興里(おきさと)」を名のり、次に「古鉄」、そして「虎徹」となり、さらに「乕徹」と改めてゐます。

「興」の字を「奧」と切る「奧里」時代、「虎徹」の「虎」の中の「ル」を撥ね上げて切る「ハネ虎」時代、「虎」を「乕」と切る「ハコ虎」時代に分けられます。このほか「徹」の字を省略して切るものを「虎入道」と呼びます。

作柄は、いはゆる虎徹の棒反りといはれるほど反りが淺く、刄文は沸本位の覇氣に滿ちた大灣れ亂れ(おおのたれみだれ)か、大互の目亂れ(おおぐのめみだれ)に丁字風の亂れが交じります。

燒刄はみごとな沸が一面に付き、亂れの谷から匂ひ足が刄中に盛んに入る非常な働きがあります。

地肌は實によく詰み美しく、手癖として鐔元十センチ程の所に大杢目肌(おおもくめはだ)が現れます。

最上大業物

切銘は、住東叡山忍岡辺長曾祢虎徹入道。長曾祢虎徹入道興里。長曾祢興里
入道虎徹。長曾祢虎徹入道。長曾祢興里。金象嵌裁斷銘、三ツ胴裁斷山野加右衞門永久(花押)など有り。

これは虎徹の脇差です。莖の銘の部分、「虎」が撥ねてます。「ハネ虎」です。
http://www.touken-katsu.com/goods/v_good/kotetsu/kotetsu.html

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2008年10月 2日 (木曜日)

劍豪の佩刀(九)

【劍豪の佩刀】

小野次郞右衞門忠明・・波平行安(なみのひらゆきやす)・・(古刀)

小野忠明は、上總國夷隈郡丸山町神子上とも、安房國朝夷郡丸村御子神(上)とも謂はれる所(現千葉縣南房総市)の生まれで、前名を御子神(上)典膳(みこがみてんぜん)と謂ひます。御子神家は、「南總里見八犬傳」で有名な里見氏の家來であつたとも謂はれます。

忠明は一刀流正統二代目として、德川二代將軍秀忠に召し出されてのち六百石を賜つてゐます。それ以後一刀流は新陰流と竝んで、將軍家御流儀となりました。

小野忠明と伊藤一刀齋の出會ひの顛末ですが、ある時兵法者として全國を囘國してゐた伊藤一刀齋は、とある宿場の宿の前に、「試合を望む者あらば相手をいたす」との高札を立てました。

それを見た腕に覺えのある御子神典膳は、仲間にすゝめられたこともあり一刀齋に試合を申し込みます。

申し込まれた一刀齋は、「見れば弱年の君の命をあたらもらひ受けるのはいかにも大人氣ない」と、自分は一尺ほどの薪を手に取り、「君は木太刀、眞劍いづれを使はうと苦しからず」と答へます。

この態度に憤慨した典膳は眞劍を選び、斬り込むこと十數囘。

しかしいづれも一刀齋によつてものの見事に刀を打ち落とされてしまひます。これに驚嘆した典膳は即刻、一刀齋に入門してゐます。

その時の典膳、後の小野次郎右衞門忠明が手にした刀が「波平行安」だつたといはれてゐます。

波平(なみのひら)】は、薩摩國谷山鄕波平(現鹿兒島市上福元)に居住し鍛刀した刀工の總稱です。
平安末期から南北朝時代までのものを古波平、室町中期以降のものを末波平と呼びます。

初代「行安」は文永年間(鎌倉中期)の人で、同名が何人もゐます。
一門の名には「行光」「安行」等、必ず「」か「」の字がつきます。

太刀姿は京反り深く、身幅狹く重ね薄く小切先の、優しく品位のある作柄です。五箇傳の内の大和傳を踏襲してゐます。
刄文は、沸本位で小沸のついた細直刄(ほそすぐは)か小亂れです。
地肌は、杢目に綾杉肌(あやすぎはだ)が混じりますが、月山鍛冶のやうな整然とした綾杉肌ではありません。
ちなみに綾杉肌は、月山(がっさん)、舞草(もうぐさ)、波平以外にはありません。

切銘、「波平行安」。

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=82706

【價格】

古波平初代「行安」・・・・1500萬圓

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2008年9月27日 (土曜日)

劍豪の佩刀(八)

【劍豪の佩刀】

伊藤一刀齋・・・大一文字助宗(おゝいちもんぢすけむね)・・(古刀)

【大一文字助宗】は、新陰流と竝んで近世の劍術界を二分する勢威を示した一刀流の開祖、伊藤一刀齋景久の愛刀です。

幼名は“鬼夜叉”だつたとも謂はれる一刀齋が、十四歳のときに伊豆の三島大明神(現靜岡縣三島市、三島大社)に參籠した折、おりしも當地では富田一放なる武藝者が劍術を教へてゐました。

この一放に立會ひを申入れた一刀齋は、ただの一撃で相手の肩を打ち、一放を打ち倒して仕舞ひます。
これを見て驚愕した同社宮司矢田部織部(やたべをりべ)から、將來を見込まれ贈られたのが神社の寶刀であつたこの刀と謂はれてゐます。

そしてさらにはその夜、神社に六人の盜賊が偲び込みますが、一刀齋がこの刀を使ひ盜賊たちを次々と切り伏せて仕舞ひます。そして最後の一人が大きな甁の陰に隱れこんだのを、その甁ごと眞二つに斷ち割つて仕舞つたのでした。

これ以降この刀は「甁割刀(かめわりとう)」と號され、寶劍のやうに捧持されて、後代へと繼承されたと謂ひます。

一刀流はその後、二代目繼承者、小野次郞衞門忠明(前名、御子神典膳(みこがみてんぜん))を經て、小野派一刀流中西派一刀流北辰一刀流、他、多くの分派を産んでゐます。

助宗】は、備前福岡一文字派の刀匠です。
福岡一文字は備前國福岡莊(現邑久郡長船町内)に居住した刀工群で、「則宗」を祖としてゐます。

則宗は元歴年間(鎌倉初期)の人で、後鳥羽院御番鍛冶の筆頭格でした。助宗はその子で、やはり御番鍛冶となり「大一文字」と呼ばれてゐます。

「一文字」は銘を「一」とのみ切ることがありますが、これは後鳥羽院から「天下一なり」といふ叡慮を賜つたことによります。

太刀は腰反りのある品位に富んだ姿。
刄文は、純然たる匂ひ本位で百花繚亂と咲き誇つた八重櫻のやうな重花丁字(じゅうかちょうじ)亂れです。
山城粟田口派が沸と地肌が絶妙なのに對し、一文字は刄文の華麗さで天下一を誇つてゐます。

これは父、「則宗」です。まだ古備前風の落ち着きを殘してゐます。

http://www.touken-sato.com/web-gallery/koitimonnji.htm

【參考價格】

則宗・・・・2800萬圓。

助宗・・・・2500萬圓。

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2008年9月26日 (金曜日)

劍豪の佩刀(七)

【劍豪の佩刀】

鍋島元茂・・千子村正(せんし(ご)むらまさ)・・(古刀)

鍋島紀伊守元茂は肥前小城七萬四千石の初代藩主です。官位は從五位下。

いはゆる「殿樣」で劍術の免許を授けられた人は多いのですが、それは藩主といふことの威光に對して敬意を表してのことで、免許皆傳とは名ばかりで實力の伴わない場合がほとんどでした。

しかしこの元茂は、大阪夏の陣の翌年、十六歳で柳生但馬守宗矩に入門した直弟子で、宗矩から直接柳生新陰流の免許皆傳を受けた「本物」の達人でした。
江戸柳生、尾張柳生とは別の分派である「鍋島柳生」の祖となつた人物です。

鍋島家に代々傳はつたとされるのが、莖に「村正」の銘と「妙法蓮華經」と題目五字が切られてゐるところから「妙法村正」と號される、伊勢桑名の刀匠【千子村正】の手になる太刀でした。

村正初代は文龜年間(室町後期)の人で、右衞門尉と稱し同名が三代續きます。
美濃「直江志津」系の流れを汲みますが、刄文に三本杉を燒くものもあるので、孫六兼元系の影響も受けてゐるやうです。
しかし村正の三本杉は整ひすぎてゐて、孫六の三本杉のやうな妙味がなく物足りません。
鍛へは板目肌、刄文は匂ひ本位の箱亂れ、のたれ亂れ、三本杉です。

村正の妖刀傳説は枚擧に暇がないほどですが、どういふわけか德川に仇なす話が多く、その爲、德川に對して腹に一物ある外樣大名が祕藏してゐたり、幕末の倒幕派の志士達に尊重されたりしたやうです。

銘「村正」
http://plaza.rakuten.co.jp/ippukuan/14002

【價格】

【千子村正】・・・900萬圓。

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2008年9月23日 (火曜日)

劍豪の佩刀(六)

【劍豪の佩刀】

佐々木小次郞・・備前長船長光(びぜんおさふねながみつ)・・(古刀)

言はずと知れた武藏の好敵手、巖流佐々木小次郞ですが、その愛刀は「二天記」によれば長さ三尺餘りの大太刀だつたとされてゐます。
三尺を超えるものは「野太刀」とも稱されます。小次郞の愛刀は"物干竿"の異名でよばれたやうですが、作刀は【備前長船長光】だつたと同書には記されてゐます。

小次郞の號「巖流」は實は彼が創始した流派の名です。小次郞は、中條流の流れを汲む富田流の祖、富田盛源(とだせゐげん)の門人だつたと言はれてゐます。

中條流は小太刀の流派で、小太刀でいかに長刀と渡り合ふかを研鑽しました。
小次郞は、小太刀の相手方として野太刀の打太刀役を長年務めたため、逆に大太刀の術に精通するに至つたとされてゐます。
しかしながら、佐々木小次郞が實在の人物だつたかどうかは、素性が諸説あり、實のところ確定されてゐません。

【長光】は備前國長船村(現岡山縣邑久郡長船町)に居住した長船派の刀匠です。
長船派は、鎌倉中期に衰退した一文字(いちもんじ)派に代はり、室町末期まで繁榮した鍛冶集團でした。
「備前長船」といへば名刀の代名詞とまでなりました。

長船には、代々、古備前「正恆(まさつね)」といふ巨匠の一門が居ましたが、一文字の名聲に押され一時衰退してゐました。
歴仁年間(鎌倉中期)に「光忠」といふ名匠が出て長船鍛冶中興の祖となります。
【長光(初代)】はその子で、左衞門尉と稱し父と竝ぶ名匠です。

太刀姿は、後に「長光姿」とよばれる姿格好の最も良い、しかも氣品に滿ちたものです。
刄文は純然たる匂ひ本位の大丁字(おおちょうじ)亂れで、刄中に見事な匂ひの働きがみられます。

切銘は、「長光」「長船長光」「備前國長船住長光」「備前國長船住人長光造」。

●名物「大般若長光(だいはんにやながみつ)」、國寶、東京國立博物館藏。
號の由來は、その代付(値段)が破格の六百貫であつたところから、大般若經六百卷にちなんで名付けられたものです。

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●名物「津田遠江長光(つだとおとふみながみつ)、國寶、德川美術館藏。
織田信長の愛刀です。

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18714

●銘「熊野三所權現長光(くまのさんしよごんげんながみつ)」、國寶、個人。
三所權現は長光の信仰した御神といはれてゐます。

これは倉敷刀劍美術館藏の長光です。

http://www.touken-sato.com/web-gallery/nagamitu.htm

【價格】

「長光(初代)」・・・・2500萬圓。

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2008年9月 8日 (月曜日)

劍豪の佩刀(五)

宮本武藏・・大原眞守(おゝはらさねもり)・・(古刀)

かの有名な劍豪、宮本武藏玄信は「二天一流」といふ獨創的な二刀流の兵法を創始しましたが、使はれた刀がどのやうなものだつたのかは、ほとんど傳はつてゐません。

武藏は晩年の五年間、肥後(熊本縣)の細川家に客分として仕へました。
この時の門人に、熊本藩家老、澤村宇右衞門友好がゐましたが、この澤村友好に賜つたのが「眞守」だつたといはれてゐます。

【眞守】は、嘉祥年間(平安後期)の人で、大原眞守伯耆眞守などと呼ばれました。名刀「童子切り」で有名な伯耆國、橫瀨三郞太夫安綱の子です。

眞守の作刀に、平淸盛の父、刑部卿平忠盛の佩刀で著名な「木枯(こがらし)」「拔丸(ぬけまる)」があります。

「拔丸」には、六波羅池殿で晝寢をしてゐた忠盛に、池から出てきた大蛇が襲ひかゝらうとした際、枕元に置いておいたこの太刀が、自然に鞘から拔け出した爲、大蛇は恐れて池に逃げ歸つたので、以後この太刀を「拔丸」と名付けたといふ故事があります。

【眞守】の作柄は、安綱に似てゐますが姿が優しく、古備前のやうに見えて沸が荒く、杢目肌柾目が混じります。
刄文は、直刄(すぐは)ほつれ小亂れ(こみだれ)、小丁字亂れ(こちょうじみだれ)等です。

切銘は、「眞守」「大原眞守」「伯耆國大原眞守造」。

香川縣歴史博物館藏の「眞守」。重要文化財。
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2008年9月 6日 (土曜日)

劍豪の佩刀(四)

柳生連也(やぎゅうれんや)・・・肥後守光代(ひごのかみみつしろ)・・・(新刀)

世に名高い「新陰流」の創始者である上泉(かみいづみ)伊勢守藤原秀綱(後に信綱)は、下總國香取飯篠長威齋(いいざさちょういさい)の天眞正傳(てんしんしょうでん)神道流を學び、さらに常陸國鹿島愛洲移香齋(あいすいこうさい)から、“古流の中の古流”と謂はれる「陰流」を學びますが、これを元に獨自に創意工夫をし、新陰流を拓きました。

この上泉伊勢守と勝負して敗れたのが、神取新十朗より新當流の奧旨を傳へられ、當時五機内隨一と謂はれた柳生石舟齋宗嚴(むねよし)でした。

「第一日一度戰つて敗れ二度戰つてまた敗れる。さらに第三日三度敗るるに及んで遂に敎へを請ふに至つた。」と傳へられてゐます。

伊勢守に弟子入りした宗嚴は新陰流を極め、正統第二世の印可を授けられ、こゝに柳生新陰流の歴史が始まります。
ちなみに「柳生」は本來は"やぎう"と發音します。

石舟齋の五男、但馬守宗矩(たじまのかみむねのり)が將軍家指南役(御流儀兵法)となり、「江戸柳生」が誕生します。しかし宗矩は劍術家といふより政治家でした。

一方、石舟齋の孫である柳生兵庫助利嚴は尾張德川家に御流儀兵法師範として出仕し「尾張柳生」の礎を築きます。
石舟齋から柳生新陰流正統第三世の相傳を授けられたのは實はこの「利嚴」なのであります。

利嚴の三男が正統第五世を繼承して新陰流を大成し、劍聖と謳はれた柳生連也齋嚴包です。
連也齋が新陰流の劍理を自ら圖案化し、繪師にこれを描かせて尾張の鐔工(鐔職人)に作らせたのが、世に言ふ「柳生鐔(やぎゅうつば)」(←クリック)です。

肥後守光代】は連也齋お氣に入りの刀工で、美濃・關の流れを汲みます。
その中には「鬼の庖丁」と名付けられた脇差、「籠釣甁(かごつるべ)」といふ刀、「笹露(ささのつゆ)」といふ脇差など有名なものがあります。

「鬼の庖丁」は、銘「肥後守秦光代」、一尺三寸六分。
表が切刄造り、裡が鎬造りのいはゆる片切刄の脇差です。
身幅廣く、重ねが非常に厚い刀姿で、一瞬の拔き打ち用に造られました。

肥後守秦光代】(←クリック)

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2008年9月 4日 (木曜日)

劍豪の佩刀(参)

荒木又右衞門・・伊賀守金道(いがのかみきんみち)・・(新刀)

日本三大仇討ちの一つ、「伊賀越え仇討ち」とも稱される、“荒木又右衞門三十六人斬り”で有名な「伊賀上野鍵屋の辻の決鬪」は、三代將軍家光の治世、寬永十一年十一月七日に行はれました。

柳生新陰流を修めた荒木又右衞門は、この頃大和郡山藩で二百五十石取の劍術師範をしてゐました。その上席師範で三百石取だつたのが、後に仇側として對決することになる河合甚左衞門でした。

備前岡山藩主、池田忠雄(たゞかつ)には寵愛する小姓、渡邊源太夫がゐました。
源太夫は大變な美少年で知られてゐましたが、こともあらうに藩士の一人、河合又五郞がこの藩主の小姓に橫戀慕をしてしまひます。(この邊のところは現代から考へるといささかぎよつとしますね。)

ある時、源太夫に關係をせまつた又五郞はむげなく拒否されたため逆上し、我を忘れて源太夫を殺害してしまひます。氣が靜まつてから事の重大さに氣付いた又五郞は脱藩し江戸へ逐電、旗本の安藤次右衞門正珍に匿はれます。

この暴擧に激怒した藩主忠雄は、外樣ながら家康の娘を母に持つ身でもあるため、安藤に對し執拗に又五郞の身柄引き渡しを要求しますが、安藤は仲間の旗本等と共にこれを拒否。これが元で他の大名や旗本を捲き込み、兩者簡の抗爭にまで發展してしまひます。

事件から二年後、忠雄は「藩の面目にかけても又五郞の上意討ちを」との遺言を殘し他界して仕舞ひます。しかし、家督を相續した息子光仲は幼年といふこともあり、幕府によつて鳥取へ國替へをさせられてしまひます。
その一方で幕府は、旗本に對しては又五郞を匿ふことを禁止し、喧嘩兩成敗の形がとられることになりました。

殺された源太夫の兄である渡邊數馬は劍術には自信がなく、姐婿である荒木又右衞門に助太刀を要請します。快諾した又右衞門は門弟の岩木孫右衞門河合武右衞門を伴ひ又五郞の探索を開始します。數馬側は總勢四人でした。

一方の河合又五郞側は、伯父である大和郡山藩上席劍術師範河合甚左衞門、尼崎藩の槍術師範櫻井半兵衞、他、總勢十一人。三十六人といふのは後世の作り話です。

奈良の舊郡山藩士の屋敷に潛伏してゐた又五郞が危險を感じて、再び江戸へ向かはうとしてゐることを察知した數馬側は、道中である伊賀上野鍵屋の辻で待ち伏せをします。

十一月七日早朝に始まつた決鬪は延々五時間に及びます。
又右衞門は、劍の苦手な數馬を又五郞一人に當たらせます。
厄介な櫻井半兵衞には得意の槍を使はせないやう、半兵衞の付き人の槍持ちに對し、又右衞門の弟子二人をかゝらせます。

その間に、最も難敵である馬上の河合甚左衞門に切り込み、まづ足を薙ぎ、落馬したところを切り伏せ即死させます。

取つて返して弟子の二人がかゝつてゐる半兵衞に切り込み深手を負はせます。半兵衞は數日後に死亡してゐます。

このときの鬪爭で、又右衞門の弟子の河合武右衞門が落命してゐます。
また、又右衞門は半兵衞との戰ひの折、相手の一黨の一人が木刀で打ちかゝつた爲、腰に一撃を受けてしまひます。その者がさらに打ちかゝらうとするところを振り向いて木刀を受け止めますが、その時愛用の刀が鍔元一寸のところでポツキリと折れてしまひます。
が、この時はすぐに味方から代はりの刀を受け取りなんとか事なきを得ました。

半兵衞が倒れた時點で又五郞側の多くは遁走してしまひます。
殘るは數馬と又五郞の一騎打ちですが、雙方とも劍術には不慣れで勝負がつかずお互ひに疲れ果てゝゐました。

やつと數馬が又五郞に傷を負はせた時點で勝負有として、又右衞門が又五郎のとゞめを刺しました。

この戰ひで實際に荒木又右衞門が一人で斬つたのは相手二人だけです。
この仇討ちが世間で大評判になつて講談話や歌舞伎にもなり、「又右衞門三十六人斬」などの荒唐無稽な俗説が流布されるやうになりました。(どこかで聞いたやうな話です。)

伊賀守金道】はこの時折れてしまつた荒木又右衞門の愛刀でした。
數馬らの身柄を一時預かつた伊賀藤堂家の家臣で戸波流を興した戸波又兵衞は、「荒木ほどの者が、かゝる懸命の場に折れやすき新刀を使用したのは、いかにも不覺といふべきである」と又右衞門を批判してゐます。

しかし【金道】は名匠といふべき刀工であり、美濃・關の流れで「三品(みしな)」一門と呼ばれます。
荒木又右衞門の愛刀は二代目金道と思はれます。二代目から莖に菊紋を切ることを敕許されてゐます。
銘は初代から「伊賀守藤原金道」に加へて「日本鍛冶惣匠」と切つてゐます。
これは全國の刀鍛冶の棟梁といふ意味であり、刀工が「○○守」といふ官位を受領するための斡旋權を取得してゐたものです。
しかし【金道】は、三代目以降の作にはあまり良いものが無いやうです。

伊賀守金道】(クリック)

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2008年8月26日 (火曜日)

劍豪の佩刀(弐)

【劍豪の佩刀】

榊原鍵吉・・同田貫正国(どうたぬきまさくに)・・(新刀)

明治十九年十一月十一日、東京は麹町區紀尾井町の伏見宮貞愛親王邸の庭前で、明治大帝陛下の御臨席を仰ぎ、武術の竸技會が催されました。

竸技會の參加者は、警視廳の撃劍師範を務めてゐた逸見宗助上田馬之助を初めとする錚々たる劍士達でした。逸見、上田は共に幕末江戸參大道場の一つ、鏡新明智流「士學館」桃井春藏門下の劍術名人です。

そんな劍士達に混じつて、小柄ながら筋骨逞しい一人の老劍士の姿がありました。きちんと髷を結つた頭には白いものが混じり、顏にも深いしわが刻まれてゐましたが、その身體は全く衰へを感じささせぬものでした。
此の男こそが「最後の劍豪」と呼ばれた榊原鍵吉友善その人でありました。

鍵吉は、直心影流の達人「幕末の劍聖」と謂はれた男谷精一郎信友の門人で將軍家茂に仕へ、幕府講武所劍術師範役にも任じられた人物でした。

その日の竸技會では樣々な劍技が披露されましたが、一番の呼び物は「鉢だめし」、謂はゆる「兜割り」でした。
明珍といふ甲冑作りの名人の鍛へになる南蠻鐵の桃形兜を試すのです。

まづ臨んだのが逸見宗助でしたが、氣合とともに振り下ろした刀はカーンといふ甲高い金屬音を鳴らしただけで、あへなく彈き反されて仕舞ひます。次に挑んだのが同門の兄弟子、上田馬之助でしたが、これも兜に傷を付けることすら出來ませんでした。

「次、誰かこの兜を割る者はゐないか!」

竝の劍士ではない逸見、上田ですら割れぬものをいつたい誰に割れようか。誰も名乘り出るもののゐない中、二度に渡る呼び掛けに応じ、すつと靜かに立上がつた男がゐました。それが其の手に【同田貫上野介正國】を携へた榊原鍵吉でした。

手慣れた仕種で手襁を懸け、見守る明治帝に一禮した鍵吉は靜かに兜に向ひ合ひます。兜をみつめる目に氣負は全く無く清く澄んでゐました。

靜かに拔はなつた同田貫を上段に構へます。そして・・・、

「うおりゃあああ!!!」

裂帛の氣合、一閃。

ごきつ、めりめりめり・・。鈍い金屬音が鳴り響きます。

鍵吉の振り下ろした同田貫は兜にめり込み、そして見事眞つ二つに斷ち割つてゐたのでした。この時は三寸五分切込まれたといひます。榊原鍵吉友善、時に五十七歳でありました。

同田貫派】は、南北朝時代に肥後の菊池郡(熊本市の北方)に大和から移住した刀工集團です。來(らい)派一門の分派、延壽(えんじゅ)一門の末裔です。

特異なこの名は、一派が住み着いた「同田貫」といふ地名からの呼び名とも謂はれますし、また、斬り下ろした刀が相手の胴を斷ち割つてさらに、その下の田圃にまでめり込んだと謂ふ話から來てゐるとも謂はれますが定かではありません。

この一門を代表する刀工が【上野介正國】で、同一門を庇護した加藤清正の朝鮮出兵時には夥しい量の軍用刀を供給してゐます。

切れ味よりも見てくれを重んづる今日的刀劍價値觀では、一般に同田貫は實用刀であり美術的價値は低いと謂はれますが、ことこの【正國】に關しては中々の逸品を殘してゐます。

劇畫「子連狼」で拜一刀の差料″胴太貫″として有名になつてからは人氣が高まり、結構な價格が付くやうです。

同田貫正國】(クリック)

【價格】

上野介正國・・1500萬圓

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2008年8月23日 (土曜日)

剣豪の佩刀(壱)

【劍豪の佩刀】

有村次左衞門・・孫六兼元(まごろくかねもと)・・(古刀)

萬延元年三月三日、上巳の節句のこの日の五つ半(朝9時頃)、在府大名總登城の爲、降りしきる春の雪の中を、彦根藩井伊家上屋敷から出てきた、供廻りの徒士二十六人、足輕、草履取り、駕籠持ち合はせて六十餘人の行列が、杵築(きづき)藩松平家橫までさしかかつた時、登城見物の者たちの中から突然一人が手に訴状を掲げながら行列に走りより、制止しようとした警護の徒士に斬りつけました。

それと同時に一發の銃聲が轟き、道の左右から十數名の武士達が行列に襲ひ掛かります。全員が白鉢卷きに白たすき、懷中には斬奸趣意書を忍ばせてゐました。襲つたのは水戸浪士十七人、薩摩浪士一人。

一方、不意を衝かれた井伊家側は雪のため付けてゐた刀の柄袋と合羽を取るのに手間取り襲撃に遲れをとりますが、乘物脇を離れなかつた御供目付河西忠左衞門が二刀で奮戰。乘物に突進してきた水戸浪士稻田重藏を斬り倒します。

襲撃した浪士側の見屆け役、水戸浪士齋藤監物も同志が次々と雪の中に倒されてゆくのを見てたまらず役目を忘れて戰ひの中に斬り込みます。

激戰の中、つひに井伊直弼の首を落としたのが、たつた一人の薩摩浪士【有村次左衞門兼淸】でした。
これが世に言ふ「櫻田門外の變」であります。

次左衞門は「野太刀自顕流(薬丸自顕流)」の使ひ手でした。この流派は薩摩藩御流儀「示現流」の開祖、東鄕藤兵衞肥前守重位の高弟、藥丸刑部左衞門兼陳が流祖で、示現流の分派です。

井伊の首を取つた次左衞門でしたがすでに滿身創痍、水戸浪士廣岡子之次郞と共によろめきながら日比谷門方面へと向かひますが、重傷ながら刀を杖に立ち上がり追ひすがつてきた、井伊家御供目付側小姓小河原秀之丞に後頭部から背中を斬り割られてしまひます。そしてつひに、若年寄遠藤但馬守の屋敷門前で力盡き、自刄切腹。追ひすがる小河原秀之丞を斬り捨てた廣岡子之次郞も重傷で、姫路藩酒井家上屋敷前で自刄切腹して果てます。

この事件で浪士側は、即死一人(稻田重藏)、重傷のため自刄四人(有村次左衞門、廣岡子之次郞、他二人)、自首、捕縛十一人(重傷により後に死亡二人、病死一人、他斬罪)、生存二人。

井伊家側は、供廻り河西忠左衞門、他三人、その場で鬪死。小河原秀之丞、他二人、その日のうちに死亡。御供頭、日下部三郞右衞門、負傷が元で五ヵ月後に死亡。合計死亡八人、負傷十三人。

浪士達が懷中に忍ばせてゐた斬奸趣意書には、條約調印と安政の大獄で彈壓政治をおこなつた大老井伊直弼を「天下の巨賊」として天誅を加へたが、決して御公儀に敵對する意思はない、と記されてゐました。

次左衞門は遠藤家の者が身元を尋ねたところ「島津修理太夫元家來・・」と蟲の息で答へ息絶えたといふことです。享年二十三でした。

この時の有村次左衞門の佩刀が、二尺六寸の【孫六兼元】でした。
兼元は美濃國關に居住する刀工集團で「關鍛冶七流」と呼ばれる中の「三阿彌」系に屬します。「孫六」と稱するのは二代目の兼元で永正年間(室町後期)の人であり、以後代々「孫六兼元」を名乘ります。
同じ三阿彌系の名工、「和泉守兼定」と共に切れ味のすこぶる良い最上大業物として、試斬りなども行ふ江戸時代の介錯役、山田淺右衞門吉睦に絶贊されてゐます。

太刀姿は長寸で反り淺く、身幅廣く、切先はやや伸びます。
刄文は匂ひ本位で、獨特の「三本杉」を得意とします。この刄文は孫六が創始したもので、あたかも杉の木立を思はせる覇氣に滿ちたものです。

その中でも特に、あまりの切れ味に、すでに斬られてゐるにもかかはらず、斬られたものが南無阿彌陀佛を二囘唱へてから息絶えたといはれる、「二念佛(にねんぶつ)兼元」と號されるものが有名です。

孫六兼元】(クリック)

【價格】

【孫六兼元】・・2000萬圓

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2008年2月 3日 (日曜日)

名刀伝【新刀鍛冶】

[新刀の刀匠達]

新刀とは嚴密には慶長以後に作られた刀をいふのが普通です。なぜ「新刀」といふのかといふと、その作刀法がそれまでとはまつたく異なるからなのです。

古刀は各傳法に則つて忠實に作られてゐます。
ある傳法の刀匠が、別の傳法で作刀するといふことは絶對にありません。しかし新刀にはさういつた忠實さが無く、良く言へば「各傳の良いところを取り入れる」作刀法なのであります。

古刀鍛冶も古刀末期になると戰國の需要に追はれて、古刀の鍛刀法では註文に應じきれず、その上技術も低下し、實用一點張りの作柄と變はり、古來の傳法が失はれました。

この時現れたのが新興の實力者、豐臣秀吉でした。秀吉は大變な愛刀家で新作を奬勵しました。また、製鐵法の進歩、鍛刀技術の改良等が行はれ、特に從來の傳系とは關係の薄い新しい刀匠が續々と現れたのであります。

しかしながら、やはり古刀期の最上物と比べると見劣りがするのは事實で、現在國寶とされてゐるものは全て古刀であり、新刀以降のものはありません。

たゞさうはいつても、新刀の上作物になると相當の出來榮えであり、決して駄物などではありません。
例へば、長曾禰虎徹入道興里堀川國弘、などは愛刀家垂涎の的となつてをり、時價で評價すると、兩者とも一千八百萬圓程であります。

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2008年1月19日 (土曜日)

名刀伝【五箇伝・相州伝(弐)】

早くから相州物は特に有名で、南北朝時代の「新札往來(しんさつおうらい)」といふ書物に、『近來。來國俊(らいくにとし)。國行新藤五(國光)藤三郞(行光)五郞入道(正宗)。其の子彦四郞(貞宗)。一代之名人候」と記されてゐます。

相州鍛冶の作風は、鍛へ肌が強く、肌摸樣がはつきりと現れ、地景(ちけい)がよく出ます。小板目肌から大板目肌までそれぞれに特色が見られます。
刄文は新藤五は直刄(すぐは)、正宗、貞宗は灣れ(のたれ)、廣光、廣秋は皆燒(ひたつら)を得意としてゐます。
いづれもが強く輝き、刄中は金筋稻妻(いなづま)、砂流(すながし)などの變化に富んで、全體に力強く覇氣に溢れた作風を示してゐます。

特に正宗は「雪の叢消え(ゆきのむらきえ)」とたとへられるやうな、沸匂ひのふくよかな灣れを基調とした刄文に神髓がみられます。現存するものは國寶級のものばかりです。

http://www.pref.toyama.jp/branches/3044/exh_0106.htm

五郞入道正宗(短刀、無銘、國寶)「名物庖丁正宗」。
庖丁正宗と呼ばれるものは三口あり、いづれも國寶です。
これは其の内の一口。(上の写真にも同じものがあります。)

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=90560


彦四郞貞宗(短刀、無銘、國寶)「名物寺澤貞宗」。
やゝ大振りで淺く反りがあり、鍛へは板目が詰んで地沸がつき、細かに地景が入つて美しく、刄文は淺い灣れに互の目を交へて沸美しく金筋がかゝり、總體に穩やかで、貞宗の典型作です。
肥前唐津城主寺澤廣高が所持してゐたのでこの名があります。
(一番下の畫像)

http://www.pref.ishikawa.jp/bunkazai/kougeihin/1.htm

鄕義弘(ごうのよしひろ)、「鄕」は「江」とも書く。
正宗十哲の筆頭。國寶に「名物稻葉江(いなばごう)」があります。

http://www.nona.dti.ne.jp/~sword/katana/1go.htm

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2008年1月14日 (月曜日)

名刀伝【五箇伝・相州伝(壱)】

【相州鍛冶】

相摸國には古くから鎌倉を中心に刀工が存在してゐましたが、
執權北條氏の命によつて山城より粟田口國綱(あわたぐちくにつな)が鎌倉に下向し、また備前から三郞國宗一文字助眞(いちもんじすけざね)が來たともいはれ、鎌倉鍛冶の強化が行はれました。

永仁(1293~99)頃になつて新藤五國光(しんとうごくにみつ)が現れると、一門に名工が輩出し、全國にその名を轟かせました。

國光の子に、國重、國廣、國泰がをり、弟子に藤三郞行光(とうさぶろうゆきみつ)、五郞入道正宗(ごろうにゅうどうまさむね)の親子、さらに正宗の弟子に藤四郞貞宗(とうしろうさだむね)がゐました。

新藤五國光(短刀、銘國光、國寶、日本刀裝具美術館藏)

名物會津新藤五」(クリック)會津若松城主、蒲生氏鄕の愛刀

新藤五國光(短刀、銘國光、附(つけたり)本阿彌光常折紙)

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2008年1月 6日 (日曜日)

名刀伝【五箇伝・備前伝(四)】

備中鍛冶

備中國を縱斷する高梁(たかはし)川の上流域では、古代よりたゝら製鐵が盛んでした。
特に阿曾(あぞ=現總社市)は國府が置かれ、鑄物師(いものじ)による農具など鐵器生産地として名高く、吉備西部の政治文化の中心地として榮えました。

備中鍛冶は妹尾(せのお)鍛冶靑江(あおへ)鍛冶の二系統に分かれます。
妹尾鍛冶は妹尾莊(現岡山市妹尾)に、靑江鍛冶は妹尾の西隣萬壽莊(まんじゆのしよう=現倉敷市)の内の靑居鄕(あおいごう)にそれぞれ住む鍛冶集團でした。

古靑江派

鎌倉初期から中期にかけての靑江は古靑江と呼ばれ珍重されてゐます。
鍛へは「備中の澄み肌」と呼ばれ、備前とは異なり鍛へ肌が白く肌立ちそこに黑い地斑(ぢふ)が現れるものです。

刄文は、丁字や互の目の足が刄と直角にならずに斜めになります。
これを「逆がゝる」といひ、備中の特色の一つです。
また、一般に銘は佩表(はきおもて)に切りますが、備中は裡(うら)に切るといふ特徴を持つてゐます。
 後鳥羽上皇御番鍛冶として、貞次、恆次、次家がゐました。

古靑江派 「太刀、銘爲次、國寶、(狐ヶ崎)」

岩國藩(山口縣)藩主吉川家の祖にあたる駿河國(靜岡縣)の豪族、
吉香(きつか)小次郞友兼が、同國「狐ヶ崎」において、梶原景時親子の討伐に當たつたときの佩刀として、この號があります。

狐ヶ崎】←クリック

片山一文字派

もともとは備前一文字派でしたが、後に備中國片山に移り住んだ爲、かう呼ばれてゐます。(最近では備前説も出てゐるやうです。)
國寶に「太刀、銘則房」があります。

片山一文字「則房」】←クリック

片山は備中國と考へられてゐましたが、近年備前福岡の片山ではないかとの説も有力視されてきてゐます。

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2007年12月29日 (土曜日)

名刀伝【五箇伝・備前伝(参)】

【備前鍛冶】

長船(おさふね)派

鎌倉中期、備前國長船村光忠といふ巨匠が出ます。

古備前風から華麗な一文字風を取り入れ、さらに獨自の丁字文を創始し、長船派の創始者として知られてゐます。

その子にやはり巨匠の長光が出て、國家存亡の一大危機、蒙古襲來といふ未曾有の國難に對應して、父と共に大規摸な工房を備へ、幾多の弟子を抱へ、多くの名刀を鍛造しました。

「長船物」は名刀の代名詞のごとくもてはやされて、室町末期まで隆盛を極め、福岡一文字派と共に二大流派として、備前鍛冶を著名にしました。

光忠

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=85743

長光(銘長光、名物津田遠江長光國寶

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18714

長光(銘長光、重要文化財)

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=19577

長光(銘長船、名物大般若長光國寶

http://www.n-p-s.net/meitou33.htm

「大般若」の号は、この太刀に当時破格の六百貫の値がつけられた為、大般若経六百巻にちなみ名付けられたものです。

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2007年12月25日 (火曜日)

名刀伝【五箇伝・備前伝(弐)】

【備前鍛冶】

「一文字派」

備前國福岡莊より北方に吉岡といふ地があります。
この地で、紀助吉(きのすけよし)といふ刀工を祖として作刀した一派を「吉岡一文字」と呼びます。

鎌倉末期、この一派に助吉の子で助光といふ名匠が出て、一文字派の最後を飾りました。

國寶に、銘「備前國吉岡住左近將監紀助光」があり、吉岡一文字の最高傑作とされてゐます。長大な太刀で、反りも高く、均衡のとれた見事な作です。

(殘念ながら畫像は檢索出來ませんでした。)

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2007年12月24日 (月曜日)

名刀伝【五箇伝・備前伝(壱)】

【備前鍛冶】

【古備前派】(備前友成を参照)

一文字派
鎌倉初期に、吉井川下流域の山陽道と交差する場所に、皇室の莊園である福岡莊がありました。こゝに生まれた新たな刀工集團を「福岡一文字(ふくおかいちもんじ)派」と呼びます。

後鳥羽上皇は承久の亂(1221)の際には、この福岡一文字派の名工たちを月番として宮中に招き、鍛刀させたりもしました。

この一門は鎌倉中期に全盛を迎へ、匂ふやうな美しい地肌と春爛漫の櫻花のやうな刄文を創始しました。
國寶に、上杉謙信藏刀の太刀であつた、無銘一文字「山鳥毛(やまとりげ)」があります。

匂ひと呼ばれる微細な粒子による丁字(ちょうじ)文は、備前鍛冶の獨壇場であり、精美な黑鐵に白くきらびやかな花を咲かせ、燒入れによりその花を永遠のものとする技は、再現不能といはれる妙技であります。

福岡一文字】←クリック

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2007年11月18日 (日曜日)

名刀伝【五箇伝・大和伝の参】

【大和五派】

尻懸(しつかけ)派

居住地については樣々な説があるやうですが、談山神社や法隆寺
などに尻懸則長の作刀が残されてゐるところから、大和国山邊郡
岸田村が有力です。
鎌倉末期の則弘にはじまり、則成、則長など「則」の字を通字と
してをり、室町末期までの作があります。
直刃を主体として互の目を連続して交へた刃文に特色があります。

大和尻懸派(刀、大磨上無銘、)

http://www.tokka.biz/soldSW/shikkake.html

保昌(ほうしょう)派

鎌倉中期にはじまり、貞継貞宗、貞興、貞清などで、南北朝に
及んでゐます。
作風は、直刃で鋩子は焼詰の顕著な特徴を持つてゐます。
国宝に、「銘高市☐住金吾籐貞吉(名物桑山保昌)」があります。

大和保昌派(短刀、無銘、伝保昌貞宗)

http://www.city.matsusaka.mie.jp/bunka/S05/shigai/sh028.htm

大和保昌派(刀、大磨上無銘、伝保昌)

http://www.manabi.pref.yamanashi.jp/db/servlet/dbview?id=A810001083

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2007年11月17日 (土曜日)

名刀伝【五箇伝・大和伝の弐】

【大和五派】

手搔派

東大寺轉害(てがい=手搔)門のあたりに居住した刀工達です。
鎌倉末期の包永(かねなが)にはじまり、包重、包俊、包吉など室町時代まで続きました。
いづれも銘に「包」の字を冠するのを通例としてゐます。現在も包永町の名が残つてゐるやうです。

手搔包永(太刀、銘包永、国宝)
(小画像をクリックして下さい)

http://www.seikado.or.jp/sub0300-r.htm

手搔包永(脇差、銘包永)

http://www.premi.co.jp/w-kanenaga.htm

当麻派

河内国(大阪府)に近い吉野の当麻寺に所属し、北葛城郡当麻(たいま)町のあたりに居住してゐました。
代表工に鎌倉末期の国行、有俊、南北朝時代の友長、友行、友清などがあります。
いづれも直刃の作が多く、沸強く、匂深く、刃中に砂流やほつれが入ります。

当麻国行(太刀、銘国行、国宝、日本美術刀剣保存協会蔵)
(上から三番目)

http://www.touken.or.jp/museum/shozohin.html

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2007年11月 4日 (日曜日)

名刀伝【五箇伝・大和伝の壱】

【大和鍛冶】

平安時代中期頃から発達した荘園制のおかげで経済基盤を強めた奈良の寺院は、寺領内に専属の刀工を持つやうになりました。

奈良の東大寺の手掻(てがい)、千手院(せんじゅゐん)、興福寺、吉野の当麻(たいま)などの諸流派は寺院の名を一派の通称としてゐます。

大和鍛冶に共通する特色は、太刀は鎬(しのぎ)が高く、鍛へは柾目や板目が流れて柾がゝり、刃文は直刃(すぐは)が多いこと、沸(にえ)が強く、砂流(すながし)があることが多いことです。鋩子(ぼうし=切先の刃文)は焼詰(やきつめ)が多いこと。

このやうな作風を大和伝と呼びます。

【大和五派】

千手院派

奈良の若草山西麓、千手院谷あたりに居住した一群で、平安末期に行信、重弘、鎌倉期に重吉、康重、力王などがあり、特に吉野郡龍門に在住した延吉は、後に後水尾天皇の御料となつた太刀を製作してゐます。

千手院龍門延吉(太刀、銘延吉、国宝、日本美術刀剣保存協会蔵)
↓(一番上の写真です)
http://www.touken.or.jp/museum/shozohin.html

糸巻太刀拵(いとまきたちこしらへ)
藍地菊紋金襴袋(あゐぢきくもんきんらんぶくろ)

http://www.touken.or.jp/index.html
(拵へと袋は江戸初期の作)

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2007年11月 3日 (土曜日)

名刀伝【山城伝】弐

【山城鍛冶】

「来(らい)派」
鎌倉中期に「」と称する一派が現れました。
『銘盡(めいづくし)』によると、朝鮮半島の高麗から来た鍛冶といひ、「来国○」と銘を入れました。

国吉を祖と伝へ、来国行来国俊、来国光、来国次をはじめ多くの名工を出した一派です。

来派の作風は国行に代表されますが、鍛へは板目肌がよくつみ、地沸(ぢにえ)がよくつき、映りが現れることが多い。

刃文は沸出来(にえでき)の直刃(すぐは)と直刃調の丁子乱(ちょうじみだれ)とがあり、刃文の中に足や葉(よう)などの働きが盛んです。

しかし、鎌倉末期から南北朝時代の国光や国次、国長などには相州鍛冶の影響を受けた沸の強い大乱(おおみだれ)の刄文を焼いたものもあります。

来国行(刀、大磨上(おほすりあげ)無銘)

http://www.touken-sato.com/web-gallery/raikuniyuki-mumei.htm

来国俊(短刀、銘来国俊、国宝、熱田神宮蔵)

http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/museum/exhibit/craftwork/01.html

その他国宝多数あり。

【山城伝の特徴】

沸(にえ)と匂(にほひ)

小沸え

姿、恰好

伝家のの宝刀と云つた感じのする長寸で、反りが深く身幅の狭い、小切先(こきつさき)になつた品格のある作柄。

刃文

焼幅の狭い小乱れで焼刃の中に非凡な働きが多い。

鋩子(ぼうし)

品よく乱れ込み小丸(こまる)に返る。

地肌

梨子肌(なしじはだ)

棟(むね)

行(ぎよう)の棟または真(しん)の棟

彫刻、その他

彫刻は身の中央に鑚(きり)の深い簡単な品位のある彫刻。

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2007年10月28日 (日曜日)

名刀伝【五箇伝(山城伝の壱)】

【山城鍛冶】

平安時代末期に三条宗近(むねちか)が現れて以来、京都には多くの刀工が出ました。平安末期には三条派、鎌倉初期には粟田口派、中期に来(らい)派、綾小路派、末期以後、了戒(りょうかい)、信国(のぶくに)、長谷部、平安城などの各派が出て隆盛を極めました。

三条派
京都、三条の地に“三条の小鍛治”と呼ばれて名高い【宗近】を祖として始まり、一派に、吉家(よしいえ)、兼永、国永、有近、近村などがをり、兼永、国永は五条に在住したため、五条兼永、国永と呼ばれます。

三条派の作風は、細身で腰反りが強く、小切先の優美な姿です。
鍛へは板目肌がよくつんで精美であり、刄文は小乱(こみだれ)で匂ひ深く、小沸えがよくついてをり、全体に優美な趣向を備へてゐます。

宗近の代表作に“名物三日月宗近”(太刀、銘三条、国宝、東京国立博物館蔵)と御物の太刀があります。

粟田口派
鎌倉時代初期から末期にわたつて京の粟田口に在住した刀工群です。
鎌倉初頭、後鳥羽院は御番鍛冶を置き、名工を御所に召して作刀を命じ、自らも焼入れしたと云はれます。ちなみに院の御作を「菊御作」と申し上げ、茎(なかご)に菊花文が刻まれてゐます。

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=42268

この御番鍛冶の中に粟田口国友、久国、国安が居り、彼らの兄弟にはさらに国清、有国、“国綱”(鬼丸国綱の作者)の三名工がゐて、粟田口六兄弟として知られてゐます。
その後も、国友の子“則国”、則国の子国吉、国光、さらに国吉の子に名工“藤四郞吉光”が出現して、日本刀工史上突出した鍛冶集団として名声を得てゐます。

作風は、初期のものは三条風ですが、中期の国吉、吉光になると身幅が広く力強くなり、切先も猪首切先となります。短刀も幅広なものが出てきます。
鍛へは梨子地(なしじ)肌と呼ばれる小板目がよくつんだもので、いかにも綺麗です。
刄文は小乱と直刃(すぐは)を得意としてゐます。

粟田口則国(太刀、銘則国、国宝、京都国立博物館蔵)

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=43761

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2007年10月21日 (日曜日)

名刀伝【備前友成】

【備前鍛冶】

大化改新以前、吉備一族によつて統治されてゐた吉備地方は、「真鉄(まかね)ふくきびの中山おびにせる」と古今和歌集にあるやうに、「真鉄ふく」が吉備の枕詞となるほど、鉄に縁の深い地域でした。

その後、吉備の国は大化改新によつて、備前、美作(みまさか)、備中、備後の四ヶ国に分けられましたが、吉備氏により開かれた鉄器の生産は、室町末期まで一千年余の間引き継がれ、この地方の優れた特産として知られました。

能阿彌(のうあみ)が編んだ刀剣鑑定書「能阿彌本銘盡(のうあみぽんめいづくし)によると、永延(えいえん)年間<987~989>の頃に、【友成(ともなり)】といふ名工が出ました。この人は“伯耆安綱”、“三条宗近”などと並ぶ、銘が確認できる最も古い刀匠の一人です。

平安末期、壇の浦に沈んだ平家の猛将、平能登守教経(たいらののとのかみのりつね)が厳島神社に奉納した太刀も“友成”でした。
この太刀は現在国宝となつてゐます。

平安末期から鎌倉初期にかけて備前の吉井川周辺に存在した刀工の一群を「古備前派」と呼びます。友成のほかに、【正恒(まさつね】、【包平(かねひら】、【信房】なども優れた刀工として知られてゐます。

友成】  【正恒】 (← それぞれクリックしてください。)

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2007年10月13日 (土曜日)

名刀伝【大典太光世】補足

【大典太】の補足を致します。

この太刀は、昭和三十二年二月、前田育徳会名義で国宝認定されてゐます。

前田家では、第一の家宝として【大典太】、【郷義弘(ごうのよしひろ)】の脇差、【粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)】の短刀の三点を「烏止らずの蔵」に納めてゐました。
蔵の名の由来は、この三点の宝刀から立ち上る霊気の爲、蔵には烏も止まる事がなかつたといふ事にあります。

また、切れ味の凄さを示す逸話として次の試し斬りの話があります。
寛政四年八月十九日、江戸千住は小塚原において幕府試し役山田浅右衛門吉睦が、斬首された罪人の屍体を用ひ【大典太】の試し斬りを行ひました。

まづ一回目は「一の胴」つまり鳩尾のところ、二回目は「車先(くるまさき)」つまり臍の下、三回目は「雁金(かりがね)」つまり左右肩胛骨を結んだ線(骨が多く斬り難い)を試したが、何れも屍体の置き台である土壇(どたん)に刃先が五寸も食込んだといひます。

さらに四回目、「三ツ胴」つまり屍体を三体重ねて試したところ、最下の屍体の背骨で止まるという切れ味を示したといふことです。

以上、補足でした。

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2007年10月 8日 (月曜日)

名刀伝【刀の歴史】四

【小烏丸(こがらすまる)】

大宝元年(耶蘇暦七〇一年)に制定された大宝律令に於て、刀匠は自分の製作刀の茎(なかご)に銘を刻むことが定められました。

これ以後、太刀の作者が特定できるやうになりますが、この頃、大和国宇多郡に「天国(あまくに)」と云ふ刀匠が出現します。
彼は、今日の謂はゆる日本刀と呼ばれる、反りのある鎬造りの太刀様式を最初に造つた爲、在銘日本刀の元祖と謂はれてゐます。

天国の作と伝へられるものに【小烏丸】と号される太刀があります。平家重代の宝刀と伝へられ、壇の浦での平家滅亡の折、海中に没したとされてゐましたが江戸時代になつて、有職故実を司る伊勢家に現存することが判明し、明治維新のときに元津島藩主の宗(そう)家にもたらされて、その後、明治大帝に献上され、現在宮内庁所蔵の御物(ぎょぶつ)となつてゐます。

【小烏丸】は、日本刀過渡期の太刀姿をしてゐます。刀身は反りがつきますが浅く、茎の部分で大きく反つてゐます。そして、刀身の上半分は棟側にも刃のある、謂はゆる両刃(もろは)で、此の様式を「切先両刃造(きっさきもろはづくり)」と呼び、俗に「小烏造り」とも称して短刀等にも採用されました。

【小烏丸】の名の由来は諸説あるやうですが、有名なものに、“桓武天皇が新築された平安京の南殿に昇殿なされた折、上空から飛来した大きな三本足の烏が運んできた太刀なのでこの名がある”と謂ふものがあります。

三本足の烏と謂へば、これはもう伊勢の大御神様に仕へる神鳥である「八咫鴉(やたがらす)」のことですから、霊験あらたかな宝剣として大いなる権威付けとなつた由来であります。
ちなみに「八咫鴉」と謂へば、日本サッカー協会のシンボルマークでもありますね。

この太刀が平家重代の宝剣となつたのは、「承平の乱」に於いて平将門討伐の爲の皇軍の将に任じられた平貞盛に、朱雀天皇より下賜されてからのことと謂はれてゐます。

しかしながら、【小烏丸】が本当に天国の作なのかどうかは実は確認されてゐないのであります。と云ふのも、永い年月のうちに茎の錆が進み銘が全く読み取れないのであります。つまりあくまで書物による「伝」天国といふ事なのでありました。

お気付きの方もをられるでせうが、先の由来からすると【小烏丸】が「出現」したのは平安初期の頃と考へられます。しかし平安遷都は耶蘇暦七九四年のことでありますから、天国の時代と伝へられる大宝年間とは実に一〇〇年近い時間の開きがあることになります。

ただ、刀匠の名と云ふものは代々襲名されるということも、ごく当然に行はれてゐることですから、小烏丸も何代目かの「天国」作と謂ふことも充分考へられる事であります。

真偽についてはともかくも、この太刀が先に御紹介した「毛抜形太刀」と並んで、日本刀完成までの過渡期の様式を今に伝へる貴重な存在であることは間違ひありません。

こちらは「小烏造り」の軍刀です。元帥刀。拵へは毛抜型太刀(衛府の太刀)様式。靖國神社蔵。
http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/gunto_135.htm

靖国神社遊就館に展示の小烏造りの太刀(真ん中くらいの写真)
http://fukuoka.cool.ne.jp/sesehiwa/pic/yasugal.htm

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2007年10月 6日 (土曜日)

名刀伝【刀の歴史】参

【刀の歴史】参

平安朝中期頃までは日本刀の過渡期で、そのほとんどは直刀形態を主としてゐました。
これらの直刀を刀剣分類上では上古刀(じょうことう)といひますがその多くは古墳から出土してゐます。
伝世品(出土品ではないもの)として最古のものに高知・小村神社の御神体、「金銅荘環頭大刀拵太刀身(こんどうそうかんとうたちこしらえたちのみ)」があります。これはいはゆる「環頭大刀」と呼ばれる形態のもので柄頭に大きな環状の飾りが付いてゐます。国宝です。

http://www.vill.hidaka.kochi.jp/hidakahp2_001.htm

日本の国力が次第に充実してくるにつれ、刀剣の需要も増大し、輸入だけでは間に合はず、大陸から優秀な刀匠の渡来を招くにいたりました。古くは応神天皇の御代、百済の昭古王の推挙により卓素(たくそ)と云ふ名匠が渡来してゐます。

また推古天皇十年、来目皇子(くめのおおじ)が新羅に進駐する際、忽海漢人(わしうみのあやと)などを大和国から呼び寄せ武器を造らせてゐますが、彼らは渡来人であり、その鍛刀法も漢のものであり日本固有のものではありませんでした。

彼ら渡来人の鍛冶を韓鍛冶(からかぬち)と呼びます。神代の昔から引き続き皇室に直属してゐた倭鍛冶(やまとかぬち)は、彼らと相対して技量を競ひ合ひながら繁栄して行きました。

東北や九州の平定が一段落し、皇威四海に輝き、中央政権が確立するにつれて、各地の豪族の元にゐた鍛冶たちは、大和、山城の皇城の地に集中しはじめるやうになりました。

東国からは蝦夷の御用鍛冶であつた「舞草(もうぐさ)」「月山(がっさん)」「宝寿(ほうじゅ)」が、九州からは大陸の影響を強く受けた九州鍛冶が、さらには古くから豊な原料にめぐまれ安住してゐた伯耆(ほうき)鍛冶が移動し、それに官府直属の大和鍛冶が入り乱れて、互に覇を握らむものと短を捨て長を学び、技を競ひ合ひ、世界無比の日本刀鍛錬法の完成へと発達していつたのであります。

余談ですが、お隣りの国では日本刀はウリナラ起源などと謂うてをるやうですが、反りのある鎬(しのぎ)造りのその姿と、独特の折り返し鍛錬法、そして柔かい心鉄(しんがね)を硬い皮鉄(かわがね)で包む造り込み技法は、大陸にも、況してや半島にもない我が国独自の発想による発明品なのであります。

そして平安後期には完成してゐた「日本刀」は、前時代とは正反対に大陸や半島に盛んに輸出され、かの地で日本刀は絶賛を博すやうになつたのであります。宋の有名な文豪、歐陽修の詩に「寶刀近出日本國・・・」とあるのがそれをよく表はしてゐます。

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2007年9月30日 (日曜日)

名刀伝【刀の歴史】弐

現存する日本刀の中で、茎(なかご)に銘が確認できるもの内、最も古いと云はれる刀匠に、以前から何度も名の出てくる【安綱(やすつな)】がゐます。

この人は、江戸時代以来の刀剣書では、伯耆国大原の在であり、大同年間(平安初期、耶蘇暦八〇六年~〇九年)の人と伝へられます。

有名な天下五剣の中の現国宝“名物童子切安綱”の作者であり、その堂々たる太刀姿はすでに完成された日本刀の優美な形を持ち、大板目肌の地肌は東北の月山(がっさん)鍛冶が得意とする綾杉肌(あやすぎはだ)の変化形と見られ、研究家の間で両者の関係が指摘されてゐます。

しかし、研究家の間では日本刀の完成期は平安中期以降とされ、安綱の大同年間説には疑問も提示されてをり、その年代は未だ確定されてをりません。

とは云つても、安綱は在銘日本刀の中では最古であることは間違ひなく、永延年間(平安中期、耶蘇暦九八七年~八八年)頃の人と云はれる、やはりこれも天下五剣の一つである“三日月宗近”の作者、【三条小鍛冶宗近】、及び同時代、宗近と並ぶ巨匠であつた備前国の人、古備前【友成(ともなり)】と共に、世界に冠たる日本刀を完成させた立役者と云へるでせう。

一条天皇の御代(九八六年~一〇一一年)、藤原道長が内覧宣旨を受けて、右大臣、さらに左大臣と出世をとげ、藤原摂関政治が全盛時代を迎へます。その頃の宮廷では“清少納言”、“紫式部”、“和泉式部”、“赤染衛門”など錚々たる才女たちが宮廷サロンを形成してゐました。

しかし一方、洛中(らくちゅう、御所の外、京の都の中)に於ては美しい娘を狙つての人さらいが続発し、ついに池田中納言の愛娘が標的にされるに及んだので、業を煮やした朝廷が陰陽師安倍晴明に判じさせたところ下手人は大江山の酒呑童子だと判明します。

事態を重く見た帝より酒呑童子討伐の敕令を下された武士団の棟梁「源頼光」は、頼光四天王と称される“渡邊綱”、“坂田金時”、“平貞道”、“平季武”、さらには藤原保昌と一族郎党を引き連れ、勇み大江山へと向ひます。

策略により酒呑童子の居館に潜入した頼光一党は、“神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)”なる、人には無害だが鬼には猛毒となる酒を飲ませ、酩酊したところにかねて用意した鉄鎖を巻き附け、佩用の【安綱】を一閃、酒呑童子の首を打ち落したのでした。

能“大江山”にある源頼光鬼退治の顛末は、実際には鬼などではなく、洛外に跋扈する兇賊たちを討伐する、朝廷の守護たる武士団の強さを誇示する為の英雄譚でありました。

そしてその後、この安綱は【童子切】と號され、【髭切(ひげきり)】【膝丸(ひざまる)】と共に源氏重代の宝刀となつたのでありました。

童子切安綱の拵へです。(再掲)

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=80823

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名刀伝【刀の歴史】壱

所謂「日本刀」の形が完成したのは平安時代中期から後期と考へられてゐます。
原型は東北地方の蕨手刀(わらびてとう)といはれてゐますが、これは平造(ひらづくり)で刀身そのものには反りがなく、柄の部分で反つてゐます。そして刀身と柄が共鉄(ともかね、同じ鉄)で造られてゐます。

http://www.city.rikuzentakata.iwate.jp/kakuka/hakubutu/kannai/warabitetou.htm

それが発達したのが毛抜形(けぬきがた)太刀で、宮中警護の近衛府(このえふ)の武官が所持した為「衛府太刀(えふのたち)」といはれるものです。
刀身に反りと鎬(しのぎ)がつきますが柄はやはり共鉄でしたので、物を切るとかなりの衝撃だつたと思はれます。

http://www.chikubushima.jp/tanbo_14.html
(柄の部分に毛抜形の透かしが入つてゐます。)

この流れとは別に大陸からも直刀が入つてきてゐます。
古くは謂はゆる神話時代、素戔嗚尊が八俣大蛇を退治したときの剣は「十握剣」ですが、これは「蛇韓鋤之劍(おろちからさびのつるぎ)」とも呼ばれ、その名が示す通り半島の作と考へられます。

また、神功皇后の御代には百済から我が皇室に「日月護身劍」「七枝劍」「丙毛槐林劍」が献上されてゐます。この時代は「高麗剣(こまつるぎ)」と呼ばれる舶来物の名剣が数多く名を残してゐます。

伊勢の神宮にも「玉纒横刀(たままきのたち)」「須賀流太刀(すかるのたち)」という有名なものが在りますが、これらも江戸時代の碩学、新井白石によると『外国の剣』だといふことです。

推古天皇の御製に『ますけよ蘇我の子等は、馬ならば日向の駒、太刀ならば句禮(くれ)の眞鋤(まささび)』とあるとほり、当時、馬は日向産、刀剣は句禮、すなわち呉の国の鉄剣が優秀とされてゐたやうです。つまり、この頃はまだ舶来物のほうが優秀だつたといふことのやうです。

以前の記事にも書きましたが、四天王寺には聖徳太子の佩刀と伝へる「丙子椒林劍(へいししょうりんけん)」「七星劍(しちせいけん)」が収蔵されてゐます。
二口とも国宝です。
http://tairyudo.com/tukan03/tukan3865.htm

これら舶来物の直刀と我が国従来の太刀とを融合させ、直刀(剣)のやうに根元部分を茎(なかご)に仕立て、木柄を取り付けて衝撃を少なくしました。これで日本刀の形が完成したのであります。

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2007年9月23日 (日曜日)

名刀伝【鬼丸国綱】

【天下五名剣】

●鬼丸国綱(おにまるくにつな)

粟田口左近国綱は山城国粟田口派の祖である国家(くにいえ)の六男。この六兄弟は全て後鳥羽院の御番鍛冶となつてゐます。
国綱の孫には、あの短刀の巨匠、“新藤五国光(しんとうごくにみつ)”がゐます。

粟田口派は、優美な品位の高い作柄です。しかし、同じ山城伝でも三条派のやうに長寸で反りの深い造りではなく、長さ、反りともに頃合いで、身幅狭く小切先、重ねは手元が厚く先に行くに従つて薄くなります。

刃文は焼き幅の狭い小乱れか、手元の焼出しがやゝ広く上部が狭い直刃(すぐは)です。これに銀粒のやうに美しく冴えた小沸(こにえ)が一面につくといふすばらしい刃中の働きがあります。地肌は純然たる梨子肌(なしじはだ)で特に細かく古今独歩の見事な鍛へです。

この【鬼丸】は執権北条時頼の佩刀でした。

時頼といへば、変装して諸国を巡回し、地方の実情を観察して、人民の病苦を救つたといふ伝承のある人物ですが、その彼が悪夢に悩まされてゐました。夜毎に夢に小鬼が現れ悪戯をするため、さすがの時頼も不気味で眠れず疲労困憊、修験者や陰陽師に祈祷させても効果が無く困り果てゝゐました。

ところがある夜まどろんでゐると、いつもの小鬼ではなく白髮の老爺が現れ、『吾は粟田口国綱の刀の化身である。毎夜あなたを悩ます小鬼を追放しようと思ふが、不浄の者の手に触られたため、錆が生じて鞘から抜け出せずに居る。小鬼の邪気を祓ひたくばそれなりの措置を講ぜよ』、と云つて消えました。

翌朝目覚めた時頼は、直ちに家臣に命じ所蔵の「国綱」を浄め、柱に抜き身で立てかけておいたまま、ある夜まどろんでゐたところ、ガッと凄い音がしたので見てみると、かの「国綱」が、時頼が日頃愛用してゐる火鉢に倒れかゝり、火鉢の足を切り裂いてゐました。良く見てみるとその足には小鬼の彫刻がしてあり、倒れ掛かつた「国綱」はその小鬼の首を見事に切り落としてゐたのでした。それ以来時頼の悩みも消え去つたのであります。以来時頼はその太刀を【鬼丸】となづけ家宝としたといふことです。

【鬼丸国綱】は後に新田義貞を経て、足利尊氏織田信長豊臣秀吉徳川家康、と渡り明治大帝に献上されました。現在【御物】として宮内庁が保管管理を行なつてゐます。

長さ、二尺五寸八分。
刃文は、湾れ(のたれ)に小乱れまじり。
拵へ(こしらへ)は、後に「鬼丸拵へ」として流行する「黒革包絲巻」です。

Photo

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2007年9月16日 (日曜日)

名刀伝【数珠丸恒次】

【天下五名剣】

●数珠丸恒次(じゆずまるつねつぐ)

備中国(びっちゅうのくに)古青江(こあおえ)派、恒次の作刀です。
備中には妹尾(せのお)鍛冶と青江鍛冶の二系統があります。
前者は妹尾荘、後者は万寿荘の青居郷にそれぞれ居住する鍛冶集団でした。
「青居」からなぜ「青江」になつたのかは定かではありませんが、妹尾よりもこちらのはうが名工の作を多く伝へてゐます。

鎌倉初期から中期にかけての青江は「古青江」と呼ばれ珍重されてゐます。
特に、鍛へ肌が白く肌立ち、そこに地斑(じふ)が現れる「備中の澄み肌」が有名です。

太刀は、長寸で腰反りの角度が特に強く、身幅狭く小切先で、藤原時代を偲ぶやうな優美さがあります。

刃文は、直刃(すぐは)でも丁字(ちょうじ)や互の目(ぐのめ)でも足の方向が刃と直角にならずに斜めになります。これを「逆がゝる」と云ひ、青江の特色です。
また銘は普通、刀身の表に切りますが古青江鍛冶は裏に切るといふ特色を持つてゐます。

恒次は青江の祖、安次の孫で承元年間(鎌倉初期1207-1210)の人です。後鳥羽院御番鍛冶の一人で、右衞門亮(うえもんのすけ)と称し、備中守を受領してゐます。

数珠丸】は日蓮が身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)を開くとき信者から贈られたものといはれ、日蓮はこの太刀を帯び、柄に数珠を掛けたところからこの名があり、天下五剣の中では異色の由来となつてゐます。

身延山久遠寺の重宝として伝来しました。その後明治維新後に一時行方不明となりましたが大正末期に兵庫県尼ケ崎で発見され、現在、当地の日蓮宗本山本興寺の宝刀となつてゐます。

長さ、二尺七寸七分。
切銘は「恒次」。

下から二番目が本物の写真です。他は摸造ですが太刀姿がよくわかると思ひます。

http://kyokusho.com/mikawaya/touken/juzumaru.htm

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2007年9月 1日 (土曜日)

名刀伝【大典太光世】

天下五名剣

●大典太光世(おゝてんたみつよ)

筑後国の鍛冶で三池典太光世(みいけてんたみつよ)といひます。三池元真(みいけげんしん)ともいひます。元真初代は承保年間(平安中期)の人といはれ、同名が数代続きます。

この大名物大典太の光世は承久年間(鎌倉中期)の人といはれますが諸説あるやうです。伝太、典田、と書くこともあります。

三池一門の太刀は反り浅く、身幅広く、重ね厚く、猪首(いくび)切先となつた豪壮な姿に沸本位(にえほんい)の中直刃(ちゅうすぐは)で、樋(ひ)は幅が広く、樋先の上つた正しい形の樋を茎(なかご)まで掻きとほします。

切銘は、「光世」「筑後国光世」「筑後国元真」

【大典太】は加賀前田家に伝来し、家宝として神聖視されてゐたやうです。
といふのも、この太刀は足利、豊臣を通じて霊力あるものとして有名でありましたが、前田利家の娘が病気になつた折、その平癒を祈つて利家に貸与され、太刀の霊験でたちまち快癒したので返却したところ、途端に再発したため再度貸与されるとやはりたちどころに快癒しました。もう大丈夫だらうと返却したところ、なんと再々度発病して仕舞ひます。三度目の再発で遂に利家に下賜されたといふ云はくつきの宝刀なのでありました。

【大典太】は三池一門の中では少し異質で、身幅は広いが重ね薄く反りの高い作りこみです。
長さ二尺一寸七分
刃文は細直刃で小沸が付いてゐます。

http://www.n-p-s.net/meitou11.htm

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2007年8月25日 (土曜日)

名刀伝【三日月宗近】

【天下五名剣】

三日月宗近(みかづきむねちか)

山城国三条宗近の作刀です。京は三条に居住した刀工なので、「三条小鍛治宗近」(さんじょうこかぢむねちか)と呼ばれました。

宗近は従四位下(じゅしいのげ)橘仲道の次男で、初め仲宗、後に宗近と改めました。
永延年間(平安中期)の人といはれ、従六位上(じゅろくいのじょう)信濃大掾(しなのだいじょう)に任じられてゐます。公務の余暇での鍛刀でありましたが、その技量は群を抜いてゐました。
小鍛治」といふ謡曲に、伏見稲荷大明神の加護を受け、宝刀【小狐丸】を鍛へ上げる様が謡はれてをり、歌舞伎などにも登場し有名です。

三条派の作風は、京といふこともあり公家達の太刀として造られた為、優美さと気品に満ちたものです。
太刀は長寸に深い鳥居反り(京反り)で、身幅狭く、先細り小切先となつた優美な姿に、小沸(こにえ)本位の小乱れを焼き、刃中には金筋(きんすじ)、稲妻(いなづま)等の充分な働きがあります。鋩子(ぼうし)の多くは乱れ込んで上品に浅く返り、地肌は良質の地鉄を小木目肌(こもくめはだ)に良く鍛へて美しく、地景(ちけい)、湯走りなどが現れます。

【三日月】は、刃縁のところどころに弧状をした、「打ちのけ」と呼ばれる三日月型の模様が現れるところから名付けられたものですが、その太刀姿そのものが、反りの中心が刀身の真中にある京反りと呼ばれる、三日月のような姿から来てゐるともいはれてゐます。
この太刀は、足利家に伝来し、その後豊臣を経て、徳川に代々伝来しました。

切銘は、「三条」。

長さ、二尺六寸四分、腰反り高く細身で上品な太刀。
国宝。東京国立博物館蔵。

http://www.n-p-s.net/meitou02.htm

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2007年8月20日 (月曜日)

名刀伝【童子切安綱】

【天下五名劍】

童子切安綱(どうじぎりやすつな)

伯耆(ホウキ)国大原鍛冶の祖、横瀬三郞太夫安綱の作刀です。
大原安綱伯耆安綱などと俗称されます。同名が数代続き、初代は大同年間(平安初期)とされますが、これは信じ難く、永延年間(平安中期)が妥当とされるところです。しかしそれでも在銘太刀を残す鍛冶の中では最も古い刀匠です。

作風は、黒みがゝつた地鉄(ジガネ)に、板目に柾肌が混じり、腰反り、踏張り強く、先細く優美です。刄文は、小沸(コニエ)の深い小乱(コミダ)れでほつれがゝつてゐます。古備前に似てゐますがより古風な味はひがあります。

切銘は、「安綱」。

【童子切】は源頼光(ミナモトノヨリミツ)の佩刀ですが、他に坂上田村磨の佩刀も手がけてゐます。
源頼光が大江山の酒呑童子を討ち取つた太刀としてこの名があります。その後、【髭切】【膝丸】とともに源氏重代の太刀となりました。
ちなみに【髭切】は、源頼光四天王の筆頭、渡邊綱が「羅生門の鬼」の片腕を切り落とした時の太刀といはれてゐます。

【童子切】は後に徳川に引き継がれ、二代将軍秀忠の娘勝姫が、結城秀康の子、忠直に嫁ぐ際の引き出物として引き渡されました。その後、紆余曲折を経て作州津山松平家へと引き継がれます。

長さ、二尺六寸六分。国宝。東京國立博物館蔵。

腰反り踏張りある姿、刃文は小乱れ、板目肌流れて黒味がゝる。

http://www.n-p-s.net/meitou04.htm

こちらは拵へです。

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=80823

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2007年7月16日 (月曜日)

名刀伝【丙子椒林剣・七星剣】

丙子椒林剣(へいししょうりんけん)】

国宝。四天王寺(大阪市)蔵。聖徳太子愛用の剣といはれてゐます。
飛鳥、白鳳時代(七世紀)の作と伝へられる切刃造(きりはづくり)の直刀です。
鍔元付近の佩裏に金象嵌で“丙子椒林”の銘があるため、この名で呼ばれてゐます。しかし、この銘の意味が現在でもはつきりしてゐません。江戸時代の碩学、新井白石によると“丙子”は干支の一つ、“ひのえね”であり、“椒林”は作者の名だといふ事ですがはつきりしません。

七星剣(しちせいけん)】

これも国宝。四天王寺蔵。太子の愛剣でした。
やはり切刃造の直刀で、こちらには表裏にある二筋樋にかけて、雲形文三星文、さらには金象嵌の七星文が施されてゐます。七星とは“北斗七星”のことです。“斗”とは中国においては液体を入れる量器のことで、柄杓に例へられます。南にある“南斗六星”に対するもので、常に正しい季節を示す事から古来より信仰の対象とされて来たものです。

第三十一代用明(ようめい)天皇が崩御されると、皇位継承を廻つて崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との政争が激化します。このとき用明帝の皇子である厩戸皇子(うまやどのみこ)、後の聖徳太子は蘇我氏側についてゐました。この戦ひの勝利を祈願するため皇子は、白膠木(ぬるで)、別名勝軍木(かちのき)で四天王、すなはち持国天増長天広目天多聞天を彫上げ、「戦ひに勝たしめたまへば必ずや寺塔を創建し、四天王を祀ります。」と請願します。戦ひに勝利した皇子は四天王寺を創建し、愛用の二剣を奉納したのでした。

叔母である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、すなはち第三十三代推古天皇の補佐役として、十七条憲法冠位十二階を制定し、仏法を尊崇して国力の隆盛に多大な貢献を果した聖徳太子でしたが、没後、後ろ盾であつた蘇我氏の専横が激しくなり、中大兄皇子等による大化改新で蘇我氏が滅ぼされたのは皮肉な事でした。

【丙子椒林剣と七星剣】

http://tairyudo.com/tukan03/tukan3865.htm

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2007年6月24日 (日曜日)

名刀伝【大刀契】

大刀契(だいとけい)】 第四の神器

第三十八代天智天皇(中大兄皇子)の御代、日本と友好関係にあつた百済の都、扶餘(ふよ)が唐・新羅の連合軍に攻められ陥落します。事実上の百済滅亡(660)でした。援軍を求められた朝廷は天智天皇二年(663)、上毛野君稚子(かみつけのきみわかこ)、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)を将軍とする大軍を派遣し新羅を伐ちますが、朝鮮半島西南部を流れる白村江の海戦で大敗を喫し、百済は完全に滅亡します。(白村江の戦

朝廷軍は百済の遺臣を伴つて帰還しましたが、このとき亡命百済王家から天智天皇へ献上されたのが、この宝剣【大刀契】であつたと云はれてゐます。

この宝剣が第四の神器として天皇践祚すなはち即位の儀に於て、剣璽として草薙剣と共に先帝から新帝に伝授されるやうになつたのは、第五十一代平城(へいぜい)天皇(774~824)からでした。

先帝第五十代桓武天皇の母君は“高野新笠(たかののにいがさ)”と申し上げ、この方は百済系渡来氏族出身の“和乙継(やまとのおとつぐ)”と、“土師(はじ)氏”出身の“真妹(まいも)”との子であつたので、桓武天皇は殊の外百済王家への思ひ入れが強く、新帝践祚に於いて、この百済王家伝来の宝剣を第四の神器として伝授することにしたのでした。

【大刀契】は南北朝の争乱の過程でその所在が失はれたらしく、室町時代以降、公卿の日記にもその名が登場しないやうですから、現存はしてゐないと思はれます。

なを、この大刀契は一振りの太刀ではなく、百済からの宝剣二振りと天皇からの節刀となる数十振りの太刀、さらに“”すなはち兵を動かす際の「割符」のことです。

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2007年6月17日 (日曜日)

名刀伝【草薙剣】(参)

【草薙剣】(その参)

その後北上を続けた日本武尊は、陸奥の竹水門(たかみなと)まで至り、蝦夷を平定したと伝へられます。現在の宮城県多賀城市付近と思はれます。

その後帰路についた尊は、武蔵、上野(こうづけ)を経て碓日坂(うすひのさか)(現在の群馬県碓氷峠)に登つた折、関東平野をかへりみて、妻であつた弟橘媛を思ひ「吾妻(あづま)はや!」と叫んだと伝へられます。それでこれ以後は関東を“あづまの国”と呼ぶやうになつたといふ事です。

そして甲斐、信濃を通つて尾張まで辿り着き、しばらく尾張氏の姫、宮簀姫(みやづひめ)の元に滞在します。
しかしその後、近江と美濃の境にある伊吹山に暴れ者の神々が居ると聞き、それを討伐せむと再び旅立ちますが、その時【草薙剣】を宮簀姫に預けたままにしてしまひます。これは、叔母である倭姫命の忠告を忘れた油断でありました。

伊吹山の暴神は大蛇に化けて道を塞いでゐましたが、尊はこれが悪神だと気付かずに気楽に跨いでしまひます。そして悪神の毒気の為に気を失ひ、病ひにかかり歩けなくなつてしまひます。やうやくの思ひで三重の能褒野(のぼの)(現鈴鹿市)(亀山市といふ説もある。)まで辿り着きますが、ここで病状が悪化しつひに絶命する事になるのでした。

この能褒野の地で故郷大和を偲んで詠んだとされる有名な歌があります。

倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるはし・・・・・はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ちくも」(大和は国のいちばんよいところだ。重なりあつた青垣のやうな山々。その山に囲まれた大和は、本当に美しい。・・・・・ああ懐かしい。わが家の方から雲が湧いてくるよ。)

そして愛剣【草薙剣】への思ひを辞世として残してゐます。

  嬢子(おとめ)の床の辺に我が置きし

      剣の大刀(たち) その大刀はや

その後、父、景行天皇は尊の死を深く嘆かれ、能褒野に陵(みささぎ)を造り厚く葬られましたが、尊の魂は白鳥となつて陵を飛び出し、大和を目指して飛立つたさうであります。

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2007年6月10日 (日曜日)

名刀伝【草薙剣】(弐)

【草薙剣】(その弐)

熊襲征伐から帰還した日本武尊は休む間もなく、次に治安の乱れ始めた東国平定を命ぜられます。東征の途中、伊勢の神宮に、叔母である倭姫命(やまとひめのみこと)を訪ね、「父は自分に死を求めてゐなさるのか」と、その苛酷な任務を叔母に訴へて泣きます。そんな日本武尊に倭姫命は天叢雲剣】と火打ち石を納めた袋を授け、「油断せぬやうに」と注意を与へ励まします。

ところが駿河国まで来た時、賊の計略に嵌まり、鹿狩をしようと野の中に入つたところを賊によつて野に火をかけられてしまひます。襲ひくる猛火に周りを取り囲まれ、絶体絶命の危機に陥つたかに見えた日本武尊でしたが、とつさの機転で佩用の天叢雲剣を使ひ周りの草を薙ぎ払ひ、さらに倭姫命から授けられた火打ち石で火を点けて迎へ火となし、危機一髪で窮地を脱する事ができたのでした。

この時の事を一説には、「王(みこ)の所佩(はか)せる剣、叢雲、自ら抽(ぬ)けて、王の傍の草を薙ぎ攘(はら)ふ。是に因りて免るることを得たまふ。故(かれ)、其の剣を号(なづ)けて草薙と曰ふといふ。」とあり、よつてその地を“焼津(やきつ)”(現静岡県焼津市)といふとあります。(他に静岡県清水市焼津との説もあります。)

その後、日本武尊は相模の馳水(はしりみず)(走水、東京湾口の浦賀水道)から上総(かずさ)(千葉県)に渡らうとして途中暴風雨に遭ひ、舟は進む事が出来なくなつてしまひます。その時、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを鎮めるため、自ら海に身を投げうつて危機を救ひました。

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも」(かつて相模の野で火攻めに遭つた時、炎の中に立つて名を呼んで下さつた君よ)

夫に感謝して一命を捧げた弟橘媛の歌です。

(つづく)

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2007年6月 6日 (水曜日)

名刀伝【草薙剣】(壱)

【草薙剣(くさなぎのつるぎ)】(その壱)

素戔嗚尊が八俣大蛇退治の際、十握剣で大蛇の尾を斬り附けたところ剣が何か固いものに当つて少し刃毀れをしてしまひます。不信に思つて尾を割いたところ、驚いた事に一振りの剣があらはれました。

この時のことを古事記はかう述べてゐます。

故(かれ)此の太刀を取らして、異しき物ぞと思ほして、天照大御神に曰(もう)し上げたまひき。是(こ)は草那藝之大刀(くさなぎのたち)也』と。

さらに日本書紀にはかうあります。

本(もと)の名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。蓋(けだ)し大蛇居る上に、常に雲気(くも)あり。故以(ゆえもつ)て名(なづ)くるか日本武尊(やまとたけるのみこと)に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ』と。

八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)と共に三種の神器として皇位継承の証とされてきた宝剣中の宝剣であります。

第十二代景行(けいこう)天皇の第二皇子小碓尊(おうすのみこと)は、父のいふ事を聞かない兄、大碓尊(おおうすのみこと)を諭さうとして、その手足をもぎ取り、薦に包んで捨ててしまつたといふ程気性が激しく、それを恐れた父に、当時反乱を起こしてゐた危険な熊襲(くまそ)の首魁、川上梟帥(かわかみのたける)討伐を命ぜられます。

計略により川上梟帥を倒した小碓尊は、尊の勇気に感心した絶命寸前の川上梟帥から、今後は【日本武(やまとたける)】と名乗られたしと薦められ、以後日本武尊と呼ばれるやうになります。

(つづく)

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2007年6月 2日 (土曜日)

名刀伝【十握剣】

十握剣(とつかのつるぎ)】

日本神話に登場する宝剣です。古事記では「十拳剣」と書いてゐますが、日本書紀では「十握剣」と表記されてゐます。天照大神の弟神、素戔嗚尊佩用の剣です。柄の部分が十握りもある長大な剣のためこの名があると云はれてゐます。

粗暴狼藉のため高天原を追放された素戔嗚尊は、出雲の肥の河のほとり、鳥髪(とりかみ)の地に天下ります。この地で、奇稲田姫を助けて八俣大蛇を退治する有名な話がありますが、この大蛇を退治する時に使はれたのが十握剣でした。

この剣は後に「蛇の麁正(おろちのあらまさ)」とか「蛇韓鋤之剣(おろちからさびのつるぎ)」などと呼ばれるやうになり、大和国は石上(いそのかみ)神宮布都之魂(ふつのみたま)神社に祀られたと伝へられてゐます。

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2006年11月26日 (日曜日)

相州正宗(三)

「相州」とは「相模国」のことですね。現在の神奈川県です。この国に刀鍛冶が出現したのは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてからの事ですから、新興の地と云つてよいでせう。

まづ、当時刀鍛冶の先進国であつた備前国から「備前三郎国宗」と云ふ刀匠と「一文字助真(いちもんじすけざね)」と云ふ刀匠がそれぞれの一門と共に来り、続いて皇城の地としてやはり先進国であつた山城国から「粟田口国綱(あわたぐちくにつな)」と云ふ刀匠が来住しました。
この三者とも錚々たる刀匠たちで、国宗は四口が現在国宝指定となつてをり、助真には「日光助真(国宝)」、国綱には「名物鬼丸国綱(重要文化財)」などが現存してゐます。

ちなみに、国宝「銘国宗」一口と「日光助真」は日光東照宮に収蔵されてゐます。

この三者が鎌倉鍛冶の基礎を築き、その後「新藤五国光(しんとうごくにみつ)」、国光の弟子で正宗の父となる「藤三郎行光」、行光の兄で鶴岡八幡宮の社僧であつた「大進坊祐慶(だいしんぼうゆうけい)」などを経て【五郎入道正宗】の時代を迎へるのであります。

新藤五国光にも藤三郎行光にも国宝があります。特に新藤五国光は短刀の名人で国宝が三口あり、中でも「名物会津新藤」は著名です。

(今日はここまで)

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2006年11月22日 (水曜日)

相州正宗(二)

正宗と云ふ人がいつごろの人なのか明確には判つてゐないのですが、正和年間(鎌倉後期)の人と云はれてゐます。

明治二十九年に新聞紙上を賑はしたものに、“正宗と云ふ刀工は実在の人物ではない”と云ふ、謂はゆる「正宗抹殺論」なるものが在りましたが、これは、その当時は正宗についての研究も不充分で、文献的な裏付も充分でなかつたからで、現在ではその存在を疑ふ研究家はゐません。

また、俗説に“妖刀で有名な「村正」は正宗の弟子であつた”と云ふものがあります。
そのエピソードの一つに、「ある時村正が小川の流れの中に本人の鍛へた太刀と、師匠の正宗の太刀とを並べて立てておいたところ、上流から流れてきた木葉が、正宗の太刀に近づいて触れやうとする直前に太刀の刃をよけて流れて行つたが、村正の太刀に近づいてきた木葉はそのまま引き寄せられるやうに刃に当り真二つに切られて流れて行つた。それを観た村正は、“これで自分は師を越えた”と言ひ放つた。しかしその言葉を聞いた正宗は、“太刀とはたゞ切れればよいと云ふものではない。その太刀を見た者が戦はずに逃出すやうな、相手を傷つけずに戦ひに勝てるやうなものが本当の名刀なのだ”と言つて村正をたしなめた。」と云ふものがあります。

正宗と村正の格の違ひを物語るエピソードとしては中々面白い話ですが、これは全くの作り話で、村正は延徳年間(室町中期)の人ですから、正宗とは時代が合ひません。百五十年以上の開きがあります。

確かに村正は大業物(おおわざもの)の作者として有名ですが、正宗とは比べ物になりません。

正宗は現在国宝指定のものが八口ありますが、村正に国宝はありません。二つ下の“重要美術品”に「妙法村正」と云ふ号の刀が一口だけあります。

(今日はここまで)

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2006年11月12日 (日曜日)

相州正宗(一)

相州正宗(そうしゅうまさむね)。日本刀の代名詞とまで評されるこの刀匠は、「相州」とあるとほり相模(さがみ)の国の人で、正確には「五郎入道正宗(ごろうにゅうどうまさむね)」と謂ひます。鎌倉に生まれた純粋な鎌倉鍛冶で、日本刀の作成法の一流派である「相州伝(そうしゅうでん)」の完成者であり古今独歩の名匠であります。

日本刀はその制作された時代によりほぼ四種類に分けられます。
まづ、日本刀の形が完成したとされる平安時代後期から室町時代末期(戦国末期を含む)までに作られたものを「古刀」と呼びます。

次に、豊臣秀吉が天下を統一した後の慶長から江戸時代末期までのものを「新刀」と呼びます。

そして、幕末から明治初期の廃刀令発布までのごく短い期間に作られたものを「新々刀」と呼びます。

それ以降現在までのものは「現代刀」と呼ばれます。

正宗は古刀期の人ですが、古刀はその作成法(伝法と謂ひます)により大きく五つに分けられます。すなはち「山城(やましろ)伝」「大和(やまと)伝」「備前(びぜん)伝」「相州伝」「美濃(みの)伝」の五つであります。この五つを総称して「古刀五箇伝(ことうごかでん)」と呼んでゐます。正宗はその中の相州伝の集大成者なのでありました。

ちなみに、先に名前の挙がりました「村正」は大和伝、関の孫六こと「孫六兼元」は美濃伝の、それぞれの系統に属しますが、村正は孫六系の影響も強く受けてゐます。

(今日はここまで)

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2006年11月 4日 (土曜日)

日本刀と聞いて思ひ浮かぶ名は?

日本刀と聞いてまず頭に思ひ浮ぶ名にはどういふものがあるでせうか。一番ポピュラーなものに「正宗」といふものがありますが如何でせうか。お酒ぢやありませんよ。刀匠の名前ですね。あとは、さうですねえ、「村正」などといふのも有名ですね。「妖刀村正」ですね。さらには「関の孫六」なんて聞いた事ないでせうか。岐阜県関市は刃物で有名ですが、御当地へ行きますと“関の孫六の流を汲む”とか謂ふて包丁などを売つてゐますね。「孫六」は「孫六兼元(まごろくかねもと)」といふ有名な刀匠です。

そんなわけで(ドンナワケダ)、正宗あたりから刀の話をして行かうかななどと思つてゐます。

・・・と、その前に、日本刀には「太刀(たち)」と「(かたな)」と二通りの呼び方がありますね。どちらでもよささうですが、実はこれには厳とした使ひ分けがあるのであります。「刀」は正式には「打ち刀」と謂ひます。

「太刀」とは、身に着ける際、刃を下にして腰から紐で吊る形式のものを謂ひ、これを「太刀を佩く(はく)」と表現します。

「刀」とは、逆に刃を上にして着衣の帯に差す形式のものを謂ひ、これを「刀を差す」と表現するのであります。

また、日本刀にはちやんと表と裏が存在し、太刀の場合は「佩表(はきおもて)」「佩裏(はきうら)」、刀の場合は「差表(さしおもて)」「差裏(さしうら)」と表現します。

あ、さうさう、日本刀の数へ方ですが、正式には「本」は使ひません。「」又は「振り」を使ひます。「口」は「ふり」と読ませる場合と「こう」と読ませる場合があります。「こう」は短刀を数へるときに使ひます。太刀の解説に「一口」とあつたら「ひとふり」と読みます。短刀なら「いつこう」で大丈夫です。

今日はここまで。

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2006年11月 1日 (水曜日)

十一月です。時の流れは早いですね。

さて、お囃子もOFFが近づいて参りましたので、いよいよ「刀剣」の話などを思ひつくままに書き込んでみたいと思つてゐます。どちらかと云ふとマイナーな趣味ですが、興味のおありの方は宜しくお願ひ致します。中途半端な知識ですので間違ひをお気附きの方はどうぞご指摘下さいませ。

まづは前触れまで。

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2006年9月 8日 (金曜日)

賜剣の儀にかかる御劒

先に猫見様より御質問のあつた、「賜剣の儀」における御劒について書いてみます。

今回の親王殿下の御劒につきましては、まだ情報があまり入つてこないのですが、作は重要無形文化財保持者(いはゆる人間国宝)である天田昭次(あまだあきつぐ)刀匠ださうです。

敬宮愛子内親王殿下の時は、直刀(二十五.七センチ)、白鞘拵へ。御刀袋は小葵紋の赤地錦。御箱は。鍛刀はやはり人間国宝の大隅俊平(おおすみとしひら)刀匠でありました。

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