●荒木又右衞門・・伊賀守金道(いがのかみきんみち)・・(新刀)
日本三大仇討ちの一つ、「伊賀越え仇討ち」とも稱される、“荒木又右衞門三十六人斬り”で有名な「伊賀上野鍵屋の辻の決鬪」は、三代將軍家光の治世、寬永十一年十一月七日に行はれました。
柳生新陰流を修めた荒木又右衞門は、この頃大和郡山藩で二百五十石取の劍術師範をしてゐました。その上席師範で三百石取だつたのが、後に仇側として對決することになる河合甚左衞門でした。
備前岡山藩主、池田忠雄(たゞかつ)には寵愛する小姓、渡邊源太夫がゐました。
源太夫は大變な美少年で知られてゐましたが、こともあらうに藩士の一人、河合又五郞がこの藩主の小姓に橫戀慕をしてしまひます。(この邊のところは現代から考へるといささかぎよつとしますね。)
ある時、源太夫に關係をせまつた又五郞はむげなく拒否されたため逆上し、我を忘れて源太夫を殺害してしまひます。氣が靜まつてから事の重大さに氣付いた又五郞は脱藩し江戸へ逐電、旗本の安藤次右衞門正珍に匿はれます。
この暴擧に激怒した藩主忠雄は、外樣ながら家康の娘を母に持つ身でもあるため、安藤に對し執拗に又五郞の身柄引き渡しを要求しますが、安藤は仲間の旗本等と共にこれを拒否。これが元で他の大名や旗本を捲き込み、兩者簡の抗爭にまで發展してしまひます。
事件から二年後、忠雄は「藩の面目にかけても又五郞の上意討ちを」との遺言を殘し他界して仕舞ひます。しかし、家督を相續した息子光仲は幼年といふこともあり、幕府によつて鳥取へ國替へをさせられてしまひます。
その一方で幕府は、旗本に對しては又五郞を匿ふことを禁止し、喧嘩兩成敗の形がとられることになりました。
殺された源太夫の兄である渡邊數馬は劍術には自信がなく、姐婿である荒木又右衞門に助太刀を要請します。快諾した又右衞門は門弟の岩木孫右衞門、河合武右衞門を伴ひ又五郞の探索を開始します。數馬側は總勢四人でした。
一方の河合又五郞側は、伯父である大和郡山藩上席劍術師範河合甚左衞門、尼崎藩の槍術師範櫻井半兵衞、他、總勢十一人。三十六人といふのは後世の作り話です。
奈良の舊郡山藩士の屋敷に潛伏してゐた又五郞が危險を感じて、再び江戸へ向かはうとしてゐることを察知した數馬側は、道中である伊賀上野鍵屋の辻で待ち伏せをします。
十一月七日早朝に始まつた決鬪は延々五時間に及びます。
又右衞門は、劍の苦手な數馬を又五郞一人に當たらせます。
厄介な櫻井半兵衞には得意の槍を使はせないやう、半兵衞の付き人の槍持ちに對し、又右衞門の弟子二人をかゝらせます。
その間に、最も難敵である馬上の河合甚左衞門に切り込み、まづ足を薙ぎ、落馬したところを切り伏せ即死させます。
取つて返して弟子の二人がかゝつてゐる半兵衞に切り込み深手を負はせます。半兵衞は數日後に死亡してゐます。
このときの鬪爭で、又右衞門の弟子の河合武右衞門が落命してゐます。
また、又右衞門は半兵衞との戰ひの折、相手の一黨の一人が木刀で打ちかゝつた爲、腰に一撃を受けてしまひます。その者がさらに打ちかゝらうとするところを振り向いて木刀を受け止めますが、その時愛用の刀が鍔元一寸のところでポツキリと折れてしまひます。
が、この時はすぐに味方から代はりの刀を受け取りなんとか事なきを得ました。
半兵衞が倒れた時點で又五郞側の多くは遁走してしまひます。
殘るは數馬と又五郞の一騎打ちですが、雙方とも劍術には不慣れで勝負がつかずお互ひに疲れ果てゝゐました。
やつと數馬が又五郞に傷を負はせた時點で勝負有として、又右衞門が又五郎のとゞめを刺しました。
この戰ひで實際に荒木又右衞門が一人で斬つたのは相手二人だけです。
この仇討ちが世間で大評判になつて講談話や歌舞伎にもなり、「又右衞門三十六人斬」などの荒唐無稽な俗説が流布されるやうになりました。(どこかで聞いたやうな話です。)
【伊賀守金道】はこの時折れてしまつた荒木又右衞門の愛刀でした。
數馬らの身柄を一時預かつた伊賀藤堂家の家臣で戸波流を興した戸波又兵衞は、「荒木ほどの者が、かゝる懸命の場に折れやすき新刀を使用したのは、いかにも不覺といふべきである」と又右衞門を批判してゐます。
しかし【金道】は名匠といふべき刀工であり、美濃・關の流れで「三品(みしな)」一門と呼ばれます。
荒木又右衞門の愛刀は二代目金道と思はれます。二代目から莖に菊紋を切ることを敕許されてゐます。
銘は初代から「伊賀守藤原金道」に加へて「日本鍛冶惣匠」と切つてゐます。
これは全國の刀鍛冶の棟梁といふ意味であり、刀工が「○○守」といふ官位を受領するための斡旋權を取得してゐたものです。
しかし【金道】は、三代目以降の作にはあまり良いものが無いやうです。
【伊賀守金道】(クリック)
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